KITAMI HAKKA TSUSHO Co.,Ltd. 株式会社北見ハッカ通商

Knowledge of Mint:栽培と抽出

栽培と抽出

栽培

北海道の農作物の栽培は長い冬の後、わずか半年の間で様々な作物が栽培されます。ハッカ草も同様に、前年の掘り起こしと同時に植えられた「種根」が初夏にやっと芽生え、短い夏で一気に成長し収穫されます。本州や外国では農産物の二毛作栽培も可能な地域が多くありますが、北海道の場合は厳しい気候条件によって、一毛作栽培しか出来ません。仮に二毛作が可能な環境であっても、乾燥葉に対しての精油が1.5~2%程しか含まないハッカ草は、収油量を増やすためには相当な面積を必要とします。そのため、本州の農家規模では大量収穫を得られず、北見ハッカが国内外でその優位性を誇っていたのも、「肥沃広大な土地」が、大きな要因であったと言えるでしょう。ハッカ栽培は一般的に適度な雨量さえあれば、そう難しい作物ではありませんが、雨量が多すぎる地方では良い精油は得られず、また、雨量の少ない場所や乾燥地域でも生育が悪く枯れてしまう場合もあります。意外に手間もコストもかかる作物なのです。ここからは、主として道内で行われていた「和種ハッカ」の栽培をご紹介します。

秋植え
道内のハッカ栽培は一毛作により、例年秋の収穫後に「種根」を掘り起こした後、これを再度植え替えて行います。この種根は冬の間、雪の下で春を待ち、気温の上がらない日も多い5月~6月地面の見える状態から、7月~9月にかけ大きく成長します。ハッカは、とても交雑しやすく地力も落ちやすく酸性度が強くなると土地を休ませる必要があり、収油量を増やすためには倍の畑面積も必要となります。又は、3~4年に一度、アルカリ化のための土壌入替えを行ったりと、肥料などのコストも多くかかる作物です。国内2箇所の北海道農試と岡山農試では、それぞれ「寒地」・「暖地」向けの品種育成と輪作物や栽培コストなど、ハッカ栽培に係る全般の調査研究が行われていました。
草取り
6月に入ると雑草も増えて来るため、収穫までは2~3回程度行います。現在、あぜ部分の草取りは小型の機械で行いますが、ハッカ草根元近辺については、やはり手作業となります。
刈取時期
「ほくと」など、和種ハッカの取卸油の商品価値は、採脳率や色択などによって決定されるため、刈取り時期は結果的に取卸油の生産が多く、採脳率や色択などが良好な時期が最良の時期となります。和種ハッカの「収油率」では、生育の経過に伴って「生草重量」が増加することで向上し、ハッカ脳・取卸油の収量は、生育後半に急激に増加し、生育後半の倒伏で、脳分含有量はそれほど変わらないものの、落葉での収油率低下もあり、早生種では「開花始め(9 月上旬)」、中生種では「着蕾期~開花始め(9 月上~中旬)」、晩生種では、「着蕾始~着蕾期(9 月中~下旬)」と、それぞれに「最高収量」となるその時期に行います。
刈取り
取卸油は全草でも数%程度の含有量のため、地上部に若干の茎を残すのみで、晴天日の朝露の乾いた早朝薄暮の時刻(午前中9時~16時の間)に、ほぼ全草の刈取りを行います。(空気中の湿度が高い時間帯に刈ったものは乾燥中に蒸されやすく、収油量がやや少なくなる可能性もあるため)。刈取り前後の収油量の変動には品種間格差がありますが、通常は最高収量となる時期を越えるとその後減少して行くため、生育後半に発生する病害虫や倒伏など作業効率の低下も想定し、早期に落葉する場合には、早めの刈取りを行うなどの、臨機応変な対応で見極めながら行います。現在、刈り倒し作業は結束しない状態のバインダが使用されています。
陰干し
刈り倒した後は「島立て」や「はさ掛け」を行いますが、精油の香味が重要な洋種ハッカでは、品質低下を防ぐため、2日程度の地干しを行い、半乾草を蒸留します。和種ハッカでは脳油の収量を主目的とするため、1~2週間程度の乾燥期間を置き、風乾状態にした後、その後、冷暗所で貯蔵され、蒸留過程へと準備されました。(乾燥は荷姿を軽くし、蒸留時に蒸気の通過を良くする目的もありますが、乾燥させすぎると精油が樹脂化し、収油量が低下したり、香りや色等の状態が悪くなってしまうため、生草に対する重量割合が30%前後で茎葉の水分が20~35%の頃が標準。また、乾燥が不十分だと蒸気の透通が悪いため脳油の収量が少なくなります。)
屋外の乾燥では、直射日光や雨露にさらされると(降雨などにより高温過湿状態が続くと精油の樹脂化や蒸発などが促進され、取卸油の減少や酸化などにより、取卸油が黒色を呈し収油率も低下する)。現在では、蒸留施設の能力向上により、バインダで結束せずに刈り倒し、降雨に注意しながら地干しを行い、3日程度の「島立て」で「7分乾燥程度」の時、大束にまとめて乾燥施設に搬入しており、従前の「はさがけ乾燥」の作業体系に比べ、作業時間が大幅に短縮されています。
掘起し
刈取り後の畑は、通常10月頃に「地下茎」を掘り起こし、ほぐした後は次年へ備え、また一本ずつを植え替えます。ハッカは他の植物同様に種でも増えますが、この地下茎の事を「種根」と呼び、通常はこの「種根移植」による栽培を行います。
栽培注意(ほくと)
現在、北見地方で多く栽培されている「ほくと」は「連作適応性」が高く、連作畑では萌芽が良好で過度の密植になることが多いため「萌芽数が100本/m以上になった場合は、生え幅30cm・削り幅30cm程度の作条を設置すると良く、耐倒伏性は中程度なので多肥栽培は避けた方が良い。」とされています。ハッカは「群がりながら、根で増えていく」植物。残念ながら、プランター栽培は好ましくありません。

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病害虫

長い冬からせっかく芽生えたハッカ草。虫除けになるはずのハッカにも、過去には萌芽時から生育初期、なぜかそれを好み、葉や茎を食害する虫がつきました。現在、近年の改良種は大きな食害を与える特定害虫がそれほどつかなくなった事や、畑面積の減少で産業的な影響が小さくなった事などで、以前使われていた農薬もほとんど使われなくなりました。現在、当地方では収量の減少も覚悟の上、除草剤や農薬を使わず手作業で栽培を行っておりますが、一大産業となり量産を目的としていた当時には「収油量」と「作業効率」に、影響を及ぼしていた虫の駆除は切実だったと言えます。

地上部
葉を食害する。
  1. 萌芽時から生育初期の葉に、小さい孔を開ける。
    ・小さい砂粒状の虫。キボシマルトビムシ
    ・卵形で、全体黄褐色の小さい甲虫。ハッカトビハムシ
  2. 葉の外縁から食害する、黄緑色~暗緑色で腹脚が2対の幼虫。ヨトウガ等・ウワバ類の幼虫
  3. 不整形の食痕。灰黒色で腹脚が4対の幼虫。ヨトウガ(夜盗蛾)の幼虫
  4. 先端部の葉の食害をする黒褐色の甲虫。ハッカハムシ
  5. 生長部の葉の食害をする幼虫。ハッカノメイガの幼虫
地下部
茎を食害する。
  1. 茎に孔を開け、中にいる甲虫。ゴボウトガリヨトウ
  2. 茎が地際近くで切断されるか、または大きくかじられる。タマナヤガ,カブラヤガの幼虫
  1. 地下茎や根部を外部から切断するなどの食害。コガネムシ、ヤガ類の幼虫
  2. 地下茎の内部に潜入し、食害する幼虫。ハッカネムシガ

北海道病害虫防除提要参考

ハッカ

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抽出方法

乾燥が終わったハッカ草は、蒸留釜に入れられ、一昼夜かけて「水蒸気蒸留」により抽出されます。そして、蒸留の終わった草のカスは家畜の飼料として利用されます。これは当初飼料代の節約と考えれていましたが、そればかりでなくこの地方の家畜に病気が非常に少なかったといわれ、結果としては、二重の効果をもたらしたようです。

蒸留器
草を器に入れて一方から蒸気を吹き込み、草にこれが通り抜ける様にして、もう一方から蒸気に混じった成分が出てくる装置。
冷却器
精油の混じった蒸気を冷やす装置。蒸気に混じった成分が冷やされることで精油が姿を現します。
分水器
出てきた液体を容器に集めると蒸気中の水と精油が、比重の差で分離した状態で溜まり、ここから精油のみを取出します。

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ハッカの精製

農家で蒸留され得られたハッカの原油(取卸油)は次に精製工場へ運ばれます。ここでその取卸油から「精製ハッカ脳(L-メントール)」と「精製ハッカ油」を分離する作業が始まり、次のような段階を経て製品化されます。過去の北見ハッカ工場で行われていた内容です。

農家で蒸留され得られたハッカの原油(取卸油)は次に精製工場へ運ばれます。ここでその取卸油から「精製ハッカ脳(L-メントール)」と「精製ハッカ油」を分離する作業が始まり、次のような段階を経て製品化されます。過去の北見ハッカ工場で行われていた内容です。

結晶の精製

  1. ろ過
    取卸油をフィルターにかけ、ろ過で不純物を除去しタンクにまとめます。
  2. 冷却
    タンクにまとめられた取卸油を冷却器に注入し、冷却を行ないます。冷却槽から粗脳を取り出すのは柄の長いスコップで行います。
  3. 遠心分離
    取卸油を冷却することによって「粗脳」といわれる結晶が姿を現します。遠心分離機はこの粗脳に含まれる油分を分離し脳分を高めるためにかけられ、最終的に精油と粗脳に分離し取出します。この工程は「脳」と「油」を作る工程の分岐点となります。遠心分離機に粗脳を出し入れするのはチリ型のスコップを使用しました。
  4. 脱油
    遠心分離された粗脳は、一旦白油を混ぜ液体に戻されて、結晶缶に入れられます。混合液を入れ、結晶槽に3℃で10日間寝かせると精脳の誕生です。
  5. 加温脱油
    脱油の済んだ精脳を更に、結晶缶でニ昼夜32℃で加温脱油します。
  6. 乾燥
    加温脱油の終わった精脳を取出し、解体させて乾燥枠に薄くまき、これをニ昼夜29℃で乾燥させます。
  7. ふるい
    乾燥の済んだ精脳を自動ふるい器にかけ大きさを揃えられそれぞれ分けられます。
  8. 結晶脳
    分けられた精脳は缶に入れられ、「オートマチック・シーマー」で密閉包装されます。
    締めくくりはそれを手作業で包装し「ハッカ脳」として製品化されます。

精油の精製

  1. ろ過
    取卸油をフィルターにかけ不純物を除去した後、タンクにまとめる。
  2. 冷却
    タンクにまとめられた取卸油を冷却器に注入し冷却を行なう。
  3. 遠心分離
    冷却した取卸油を遠心分離機にかけ精油と粗脳に分離し取出す。
  4. 水蒸気蒸留
    遠心分離で取出した粗油を再蒸留し白油を得る。
  5. 白油タンク
    取出した白油をタンクに入れる。
  6. 完成品
    色を基準値のものと比較選別した後、白油として製品化される。

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蒸留器の歴史

蒸留器はヨーロッパで発明され古くから利用されていましたが、日本でも独自に開発が行なわれ、収油量のアップ・作業効率化を求められながら現在の形式に変わって行きました。当時蒸留釜はコストも高く、全ての農家が保有していた訳ではありません。複数農家で一つの釜を共有したり、近くの農家の釜を借りたりしながら付きっきりで蒸留を行いました。蒸留にはまず火を焚くための薪を切ることから始まり手間も時間もかかるものでしたが、時代と共に効率化が図られ、これらの欠点を補う数々の改良型が登場しました。以下は栽培当初から様々な工夫が行われ、効率的に変化して行った蒸留器の変遷です。

サンプル
初期の蒸留方法
初期の蒸留釜は「蒸留器」と「冷却器」が一緒になっていた。明治19年に、松前藩に仕えていた井上氏がハッカについての調査研究を進め「明治初期における、日本の薄荷栽培法並びに製造法」をまとめた。この頃は一般的に「薄荷釜」と呼ばれていた。
天水釜
明治30年~40年頃は、岡山や山形の蒸留経験者が、蒸し桶に天水桶を使ったことから「天水釜」と呼ばれる蒸留釜で行なっていた。熱するのと冷やすのを同じもので行う効率の悪いものだった。この時の収油量、20~30貫(75kg~110kg)の葉から600~900gで、一回の蒸留に5~6時間を要し、一斗缶(15kg)を収油するのに3日間ほどかかったと言う。
蛇管式天水釜
大正に入り、天水釜の改良型「蛇管式天水釜」に変わり40~60貫(150~約230kg)の処理能力と、収量は2倍の(1~2kg)となる。この釜から(蒸留)・(冷却)・(分水)と分かれた現在の形に近い状態となる。
箱せいろ型薄荷釜
昭和初期には「箱せいろ型薄荷釜」も登場する。農民が三段又は四段の箱型のセイロを作り、天水釜の桶をこれに替えて行なったが、蒸気の行き渡り方が均一にならず収油量はあったが効率が悪く、長くは続かなかった。この釜の能力は草80貫(150~約230kg)で収油量が約2.4kgだった。
観音開き型
箱せいろ型の改良型でせいろを鉄製に変更し、「蒸留かす」を観音開きにした正面の扉からトロッコ式で引き出したのでこの名がついた。
田中式蒸留釜
昭和5年、薄荷釜の改良に取り組んでいた田中篠松氏により「天水釜」の9倍、箱セイロの収油量をアップさせ短時間処理の効率という画期的な「田中式蒸留釜」が完成した。80貫の草に対し、3kg強の収油能力であった。
北工式
昭和9年、ホクレンは木製から金属製に替えた「北工式」を完成させた。ハッカ工場の創業時は「田中式蒸留釜」の販売も請け負っていたが、これをベースとしたモデルをハッカ工場の初代工場長の依頼で製作が始まり、道工業試験場の林工場長が中心となり、耐久と効率の両面をアップさせ完成した。
農試式
薄荷蒸留釜は格段と作業効率が良くなり、戦後は100貫(約380kg)の草から5kg弱の収油し、これに要する時間は概ね2時間強とまでになっていたが、戦後の痛手と衰退機運の中で小型の蒸留器が登場した。この蒸留器は生産性を求めるものではなく、品種別・季節別に「坪刈り」という試験的栽培を行い新種の開発と育成を目的に利用された。
重油式バーナ蒸留機
昭和29年、天皇陛下の行奉後まもなく登場した釜。慢性的なハッカ不調の中で、より効率化のニーズに応え田中式と北工式の長所を活かしながら、更に改良を加えて完成した。
ボイラー式
現在、蒸留器は以前の釜下から吹き込むタイプではなく、ボイラーで発生させた蒸気を入れ、その調整もしながら、蒸留する型になった。水を炊く工程は省かれ、短い時間で水蒸気から乾燥までの工程を一気に行うタイプ。

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田中式蒸留釜

田中篠松・・・岐阜県荘皮川村町屋の生まれ。明治38年愛別村伊香牛に入地する。中川村帝室御料林の小作となり、ここで19年間のハッカ作付けに従事した後、昭和3年、野付牛(現北見市)の那須助役の斡旋で川東に入地。20年近いハッカ耕作と蒸留の経験を生かし、農作業の合間に薄荷釜の製造に取組む。当時平蓋だった釜の蓋を傘型に変更するなど、様々な改良を加え画期的な「田中式蒸留釜」を開発した。国内外のハッカ産業界を代表する人物として脚光を浴び、北見の発展に大きく寄与した人物。

田中氏の功績

  • 従来の釜の平蓋を傘型に変え、蓋の縁に樋をつける事で「内側に着いた水滴を草に落ちないように」工夫した画期的な釜。
  • この釜は、ハッカの蒸留ばかりでなく、千葉・茨城などで「しそ」、静岡では「密柑」の蒸留にも使われ、アメリカからは焚き口ごと輸入したいとの注文が入るなど、道内の農家だけではなく国内外の幅広い需要があったほどでした。
  • 昭和8年、田中氏ら数名によって「田中式蒸留器製造組合」が結成され、翌年の昭和9年には、ホクレンがこの取り扱いを始めた事で、蒸留器自体の販路も大きく広がる事になりました。
  • この釜の登場によって、その後の「北工式蒸留釜」の開発や改良型の普及にも影響を与えることとなります。
  • 明治半ば過ぎに出来た「天水釜」では、1回の蒸す時間が5,6時間要したのが、この田中式では半分以下の2時間強で出来、蒸留時間の短縮は、燃料(薪)の節約につながり、薪を作る時間短縮にもなり、この時間を他の作業に振向けることが可能という何重もの効果をもたらしましたのです。

北見ハッカ記念館館内資料、前川満夫著「きたみはっかの よもやまばなし」

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