日本と世界ハッカ史
01日本のミントは中国から?
ハッカは今から3500年前、古代ギリシャで生薬として利用されており、歴史上最も古い栽培植物の一つと言われています。日本には今から2000年以上前に中国から伝わりました。 10世紀には、山菜として平安貴族の食卓をにぎわし、室町時代には薬種として用いられたという記録があり、実は宇治近辺で、お茶よりも早く栽培が行われていたとも言われています。
日本の本格的なハッカ栽培は19世紀、岡山に始まります。その後広島を経て新潟・群馬などにも影響を与えながら・山形へと移って行き、北海道では明治17年、日高門別での試作が始まりです。八雲町での栽培は失敗しましたが、現旭川市永山町での成功が最初でした。北見へはその後です.....。
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BC60年(皇紀600年、元年は神武天皇即位の年)
ハッカ栽培がされていたという説がある。 支那人(中国)によって持込まれ、肥前諫早(長崎県)で最初の栽培が始まる。その後、山城・富野(京都府)に伝わり、西日本で広がったと言われる。
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1191年
栄西が中国から持ち帰り、山城の長池で栽培したとも言われ、後に備中(岡山)での栽培が始められた理由も、栄西が岡山出身という事で想像がつく。
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18世紀初頭の享保の頃
奈良や堺でも栽培される。
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1817年
文化14年、岡山の秋山熊太郎が江戸から種根を持ち帰り栽培を始める。この時既に蒸留方法も会得しており、これで得た油を薬種商などに売り、利益をあげていたが、他人にその製法を教えず、その地域の産業として育たなかった。
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文化・文政の頃
岡山・福井・長野などで栽培されていた
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1854年
安政元年、広島の佐藤亥三郎が、苗を取り寄せ栽培を始めるが、当初油の製法がわからず後に芋焼酎の蒸留にヒントを得て独自にその方法を開発し、栽培から蒸留方法を他人に指導した事でこの地方に作付けが広がる。
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1855年
その後、幕末の安政年間に岡山(備中)・広島(三備)・新潟(越後)・山形等で本格的に栽培が始まる。
明治時代
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1869年
栽培が新潟・千葉・神奈川・愛知・東北・北海道へも広がり、山形県がその主産地となる。(その実績から後に八雲で栽培される元苗は米沢から持ち込まれることとなる。)
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1873年
明治6年、山形ハッカの取卸油がロンドンへ進出、国内初の輸出となった。
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1882年
明治15年、英国商人コッキングが、横浜に脱脳工場(ハッカ結晶の精製工場)を建設した。
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1884年
明治17年、北海道における栽培は日高門別で始まる。
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1885年
日高門別と同時期の明治18年、八雲の徳川農場(尾張藩主徳川慶勝が開いた農園)でも栽培を始めるが、どちらの地区も気候や土壌が合わず長くは続かず、失敗に終わる。この時期に岡山に遅れること30年以上、広島・北海道の栽培が盛んになり始める。
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1891年
明治24年、旭川(当時永山村)の屯田兵石山伝次郎の父(伝兵右衛門)が、山形の気候風土と似通ったこの地に薄荷栽培成功の確信を得、既に栽培・蒸留法が確立されていた山形から種根を持ち込み栽培が成功する。この頃、札幌・道南・空知にも広がっていたが、北海道では旭川(当時の永山村)が主産地となる。
渡辺精司氏が福島県から移住の目的で、紋別郡モベツ村に到着し、この地において野生のハッカを発見した。後に、この野生種を会津若松に送り含油量の試験依頼をする。乾燥葉1貫(約3.75kg)につき1.5gの精油を得たため、改良種ならば相当の収穫が出来るに違いないと、走り回るがやっと上川地方において苗を手に入れる。その量六貫(約22.5kg)1円20銭分。この年が北海道の本格的な栽培の初年度となる。
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1892年
明治25年、コッキングが事業に失敗するが、この後をハッカ商として力をつけてきた多勢・矢沢両商店(多勢吉太郎・矢沢藤太郎)が引継ぎ、共同事業でハッカ精製に取り組む事となり、この年「札幌苗穂での薄荷栽培とその売買」について「屯田兵中隊司令部」へ許可申請を依頼する。
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1893年
明治26年「小林桂介商店」が、精製事業を始める。
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1894年
小林商店の翌27年には、「長岡佐介商店」が精製事業を始めた。
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1911年
明治44年、農家の生産額が40万円を越え、当時では莫大な金額となる、この時代の最高値をつけた。北見地方の作付け面積が全国の86%を占める。
大正・昭和初期
この頃は栽培方法の擁立が中心となるが、北海道農試遠軽薄荷試場が寒地薄荷、岡山県農試倉敷薄荷分場が暖地薄荷を担当しながら、品種改良に力を注ぎ始める時期となる。
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1943年
昭和18年、中国長江流域(上海周辺)に栽培される薄荷品種を地区別に数点持ち帰り農試での品種改良の元となった。
以降、北見ハッカの歴史に続く...
渡辺精司氏
会津若松の小田垣郊外で薬種商渡辺清三郎の長男として生まれ、小林桂介商店に奉公する。農業経営を志し、幾度と無く北海道を調査に訪れながら入植資金を蓄えるため、当時見店屋のない礼文島に一軒の雑貨店を開く。明治24年、藻別村で採取した野生種の薄荷含油量の試験依頼を行い、気候風土の優位性を確信した後、現旭川の永山村で手に入れた苗を元に湧別原野1haの畑で北見地方最初の栽培を始めた人物。
02ヨーロッパその他では
ミントはBC4000年頃から利用され、そして約3000年前の古代ギリシャ時代に地中海沿岸で栽培が始まり、世界各国に広がったと言われています。また一説には中国からインド・エジプト・ヨーロッパを経たともいわれてますが、いずれにせよヨーロッパでは相当古くから利用されてきたようです。
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17世紀
イギリスから逃れてきた清教徒の一行によって、スペアミントが東部ニューイングランド地方へ持ち込まれたようです。
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1840年
ペパーミントがオハイオ州やミシガン州などで商業栽培されます。
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1880年
ペパーミントガムが発売され、その後はガムの味の基本がミントになりました。
今やアメリカインドは世界的なハッカの原産地です。
その他の世界のハッカエピソード
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「ミイラにも・・・」
BC3733年に完成したギゼーの大ピラミッドの建設には労働者の食事にハッカが用いられた記録があります。またミイラの下にハッカ草を敷いて腐敗防止に役立てたそうです。
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「ミントは美少女の名前」
ミントはフランス語で「Menthe」、スペイン・イタリア語で「Menta」と書きますが、この「メンタ」とはギリシャ神話に出てくる可愛らしい「Minthes」の名に因みつけられたもの。プルートの妻プロセリピナの嫉妬に触れて卑しく踏みにじられミントにされた美少女の名前と言われております。
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「ヒポクラテスの医学書」
BC460~377年まで生きた「医学の父」ヒポクラテスの医学書にもミントのことが記載され、41種類の治療薬の中にミントを加え特に健胃薬、気付け薬としてこれを処方しています。
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「ハッカは右腕に・・・」
古代ギリシャ時代、タイムは「品格」を表し胸に、ミントは「力強さ」を象徴し右腕に付けたといいます。
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「修道院でも・・・」
ローマ時代の兵士達によりローマ帝国全土に伝播されたミントは、9世紀にはヨーロッパ中の修道院の庭で栽培されるようになりました。
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「ミントリキュール」
ヨーロッパの修道院で造られていたシャルトリューズやベネディクティンなどのミントを使ったリキュールは消化不良の時に大切に飲まれていたといいます。
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「お風呂にも・・・」
エジプトでは昔から、ミントをお風呂に入れる習慣があったといいます。
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「トニックシャンプー」
ヨーロッパでは古くから、シャンプーや石鹸に原料として使用していたといいます。油分を分解する性質で肌や髪をさらさらに、そして殺菌効果も狙った利用法でした。油性の髪用リンスとしても使われていたといいます。
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「歯磨き」「治療薬」「痛み止め」
中世にはミントの葉を乾燥させ粉末にしたものを歯磨きとして使ったり、野犬に咬まれた時の治療薬、蜂刺されの痛み止めなどに使用されるようになりました。
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「床にミント」
16世紀以前のヨーロッパでは、宴会の席では食欲増進のため、寝室ではぐっすり寝れるようにと、ミントの草を床にばらまく習慣もあったそうです。
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「ミント・ジュレップ」
現在世界中にミントを使ったカクテルがありますが、これはアメリカ南部で出来たカクテル。南部の暑い午後を涼しくそして楽しく過ごすための知恵だったのでしょう。
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スペアミントが先
世界のミントの品種をペパーミント系とスペアミント系に分けるとすれば、スペアミントの方がはるかに歴史が古く、ペパーミントは「スペアミントとウォターミントの交配種」で1696年にイギリスの偉大な自然学者ジョン・レイが下痢の治療に良いと推奨するまで別の品種とされ知られていなかったといわれます。
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ミッチャム種
ペパーミントはイギリスミッチャム地方が名高く、この品種はフランスやイタリアへ行き、フランスミッチャム・イタリアミッチャムと変わります。今日あるペパーミント種はここから、アメリカ・ヨーロッパ・中東諸国・ロシアへと広がったようです。