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ハッカの歴史 History of Mint

北見ハッカ史

北見ハッカの変遷

かつての日本には世界香料地図の中に「peppermint」と「北見」の地名が表示され、この地で市場相場が変動していた古き良き「ハッカ隆盛時代」がありました。日本の農産物としては類稀な世界市場での活躍。それによって生まれたヨーロッパ同様の数々の歴史とエピソード。ここでは中国から渡来したハッカが、どんな変遷を辿り北見と関わったのかご紹介したいと思います。

明治時代
  • 1896年

    明治29年北見地方での栽培は、渡辺氏が手に入れた六貫の種根を湧別村に植え付けたのが始まり。この年の秋、乾燥葉約10貫で約3kgの収穫があり、ハッカ栽培の有望性を確信する。

    同氏は収穫した分を当時で12円前後で売上げた。実に野生種の2倍の量を収穫し種根代金の10倍の収入を得た事になる。後に同氏は苗やこれらの販売で資産を成したと言われるが、この事から北見地方でのハッカ栽培は湧別を中心に拡大したと思われる。

  • 1897年

    明治30年、北見へ屯田兵及び北光社移民団が入植する。

  • 1898年

    明治31年、初めてのハッカ統計として6反歩記録される。

  • 1899年

    明治32年、栽培を始めていた遠軽の小山田利七もまた、蒸留器を山形から持ち込み乾燥させていた草を蒸留して利益を上げた。

  • 1901年

    明治34年から、一気に湧別・斜里・北見(当時の野付牛)など北見地方での栽培が活発になる。

  • 1902年

    明治35年、北見へは湧別から苗を移入し栽培が拡大した。この年、興部・常呂でも栽培が始まる。

    明治36年、1反から四組以上(一組=1.2kg)約5kgの収穫があった。当時の金額で40円前後の収入である。当時大豆や小麦が1反から4円程度だから約10倍の収入となり、交通事情の良くない当時では運搬効率が他の作物と比較にならないくらい良かった。

  • 1904年

    日露戦争(明治37~38年)が始まる。屯田兵が日露戦争に出征中、家族はハッカ栽培で生計を立てたという。

  • 1906年

    日露戦争終戦後、ハッカは北見周辺で集中的に栽培され出し、投機的な取引が盛況となる。

  • 1911年

    明治44年、農家の生産額が40万円を越え、当時では莫大な金額となる、この時代の最高値をつけた。北見地方の作付け面積が全国の86%を占める。

大正時代
  • 1912年

    大正元年、サミュエル事件の発端が起こる。翌年、大冷害も重なり、ハッカ価格が高騰する。この頃、栽培の中心は本州から北海道に完全に移行した。

  • 1915年

    大正4年、サミュエルが、横浜地裁に訴えをおこし、大正8年・12年と一審二審共に敗訴する。

  • 1918年

    大正7年、第一次世界大戦の勃発。食料増産に全力を入れることを余儀なくされ、生産が大きく下降し始める。

  • 1912年

    関東大震災。当時香料会社の拠点だった関東が、大手ハッカ商社の倉庫消失など大打撃を受け、一時ハッカ価格高騰の要因を作った。この時からハッカの大手企業が横浜から神戸へと移る。

  • 以降大正期

    以降昭和初期まで一時価格の下落が続く。当然ながら生産費率が上がり更に土地の減耗により収穫が減少、悪循環となった。この時採算の合わない農家では相当数で畑作に転じたと言う。この時代、戦争や取引に関わる事件等がハッカの投機的作物の色を強めた時期でもある。時にハッカ栽培の沈滞期である。

昭和時代
  • 昭和初期

    ハッカは再び高値を付け始めまた栽培が盛んとなる。この頃、ブラジルへの入植が始まり、後に脅威となる北見ハッカの苗も持込まれた。ブラジルではこの苗を開拓作物としてハッカ栽培に取り組み、品種改良や精製技術の向上に努めた。

  • 1933年

    昭和8年、世界一と言われたホクレンのハッカ精製工場が北見市に建設される。このため大部分の農家は固定作物としてハッカを選び努力を注ぐ。

  • 1934年

    昭和9年から北見ハッカが輸出される事となる。

  • 1938年

    昭和13,14年、栽培面積21000ha、取卸油の生産量が780tこの時世界の生産量の70%を占有するハッカ王国として、北見ハッカの名声を高めた。

  • 1940年

    また国家統制のもと食料増産に全力を入れざるを得ない状況にされる。

  • 1941年

    太平洋戦争勃発。1945年終戦までの間(昭和16~20年)ハッカ栽培は一時中断となる。

戦後
  • 1947年

    昭和22年、北海道農試遠軽薄荷試場で、中国種「南通」を母体に「あかまる」を父とした、後の「まんよう」の種子育成を始める。

  • 終戦後

    道庁奨励もあり次第にまた耕作者が増す。ハッカの価格が上昇し北見ハッカの面目を保てるまでに復活し出す。

  • 1949年

    北海道ハッカ耕作組合の結成。

  • 1951年

    農林省北海道農業試験場が北見から遠軽へ移転。以降、品種改良が進む。

  • 1954年

    昭和天皇がハッカ工場の視察に訪れる。一組1万円を越える価格をつけ、また増反するものが出てくるが同時期にブラジル産ハッカが進出する頃でもある。

  • 1955年

    中国産ハッカの進出。続いて台湾、ジャワ産と新たな壁が出てくる。

  • 1960年頃

    天然と合成が入れ替わる。

  • 1960年代

    海外からの輸入ハッカと合成ハッカに押され、特に合成ハッカの時代に入る。

  • 1971年

    ハッカが輸入自由化になる。

近年
  • 1983年

    ハッカの輸入関税が引き下げられる。北見ハッカ工場が閉鎖。

  • 1985年

    歴史の継承を基に北見薄荷通商が設立され、ペパーミントオイルの瓶詰めを百貨店など道外市場を中心とした製造販売に乗り出す。

  • 1986年

    旧薄荷工場がハッカ記念館としてオープンする。

  • 1990年後半

    安値な輸入天然ハッカの需要が増加し、これらを使用した加工品が多く流通し出す。北見市により、ハッカ公園とハッカ畑が造成される。

  • 2002年

    ハッカ記念館の敷地内に薄荷蒸留館が併設される。

  • 2003年

    ハッカ畑脇に蒸留所も建設され、最後の改良和種「ほくと」の精油を製品化する。

サミュエル事件

大正4年、「生産者」と「買付け業者(サミュエル商会)」間で訴訟に発展した協定不履行や代金をめぐる事件。
北見薄荷工場の建設機運が高まっている昭和初期、世界のハッカ需要先の目は人件費がまだ安い日本に向けられ、外貨獲得を目論む国内外のハッカ商社達は、取引先との攻防を繰り広げていました。「サミュエル事件」は、そんな中で起こった北見ハッカ史に残る最大の事件です。

明治39年「四大買付業者」が協定を組み、農家からのハッカ買付け価格を当事者サイドで操作をして有利な価格で仕入れる事を目論んだ。当時、業者側の買付け額が一組3~4円程度まで落ち込むが、他の作物と比較するとまだ余力がある事でこの事情をついたトラスト側が更に圧をかけてきた。しかし農民側は食い下がり、協定に参加していない業者との取引を求め、道庁と神奈川県庁やその間を取り持つ道議らの伝によってイギリスの「サミュエル商会」が浮上し紹介を受ける。

大正元年、「サミュエル商会」と契約を交わし「生産者サイド」でも対抗策を講じた。一部前金と買取額を設定し一定以上の金額で売れたものはその差額分を折半するという内容。次に、この農家の動きが明るみに出ると当初の「トラスト協定側(四大業者)」が態度を急変させサミュエルとの協定条件よりも良い条件提示をした。ところが、これによって協定側にひるがえる農家が続出、サミュエル側としても紹介に応じた道庁側も対処に困る事となる。トラスト側は一時、一組25円以上という高値を提示しながらでもサミュエルに予定量が渡らない様に反撃する。サミュエルも道などの関係者に力を借り横流しを防ぐ対抗策を講じるが横流しをする農家は後を絶たず、これに加えて業者の相変わらず不当な金額での買付けによってサミュエルとの当初契約52500組(6.3t)の確保にも苦慮させられる。

そんな中、大正元年12月にサミュエル側が当初予定を超える40万円という内金をし製品確保を図るが、業者選択が出来る優位な立場の農民側からは逆に代金の全額清算を迫られる。サミュエル側は残り27500組という未納分の原料確保など不安材料も多いため、製品が市場に流通し相場が見え始める6月まで待ってくれと訴えるが、これに聞き入らず揉め始めることになる。サミュエル側は予定総量の内、納入された25000組分が既に一組当たり5円分で支払った「買入れ品」としての担保だと主張する。しかしこれを「委託品」だと主張する双方の争いとなった。そこでサミュエルは当初の取り決め内容である一組9円あたりの前払いした金額とその差額の約125000円の返還等を求め訴訟を起こした。

道としても外国人との始めての取引とあって、海外に不評を与えたくない中で起きた不本意な事件だった。その後も海外商社による買付け希望もあったがこの事件を契機に直接買付けに対し農家も消極的になり、地場での買上げを求め一層ハッカ工場建設の機運が高まる事となる。